私たちの生活でとても身近な材料の一つ、「ガラス」。
いまだ解明されていない部分もある物質でありながら、ガラスは日常的に使われています。
そんなガラスがいつから人類によって使われているのでしょうか。調べた結果、なんと5000年以上も昔からガラスは人類と共に発展の道を歩んでいるのです。
今回はガラスの歴史について纏めました。最後まで読んでいただけると幸いです。
目次
ガラスの始まり
ガラスの歴史は古く、火山から噴き出した溶岩がガラス状に固まった黒曜石は、石器時代から包丁のような用途で木の棒に固定し、料理などに活用されたり、武器として矢じりを作る際に利用されてきました。
そうした天然ガラスは交易品として珍重され、産出地域から遠く離れた地域で出土することがあります。青銅器が発明されなかった文明や、発明されても装飾品としての利用にとどまったメソアメリカ文明やインカ文明においては、黒曜石は刃物の材料として重要であり続け、武器の代表格でした。
ガラス製造の歴史
ガラスはメソポタミア文明から
ガラス製造の歴史がいつごろから始まったかは、はっきりとは分かっていません。
いまの所、もっとも古いガラスは、メソポタミアで約4500年前に作られたガラスビーズ(ガラス玉)と考えられています。エジプトで始まったと考える人達もいますが、最近では、エジプトのガラスはこのメソポタミアの地から伝わったという説が有力です。
当時はガラス自体を材料として用いていたのではなく、陶磁器や青銅器を作る際の材料として用いられていたようです。
鋳造と型押し法
エジプトや西アジアでは紀元前2000年代までに、一部の植物灰や天然炭酸ソーダとともにシリカを熱すると融点が下がることが明らかになり、これを利用して焼結ではなく溶融によるガラスの加工が可能になりました。これが鋳造ガラスの始まりです。
紀元前1550年ごろにはエジプトで粘土の型に溶かしたガラスを流し込んで最初のガラスの器が作られました。これを型押し法と言い、特にエジプトでは様々な技法の作品が作製され、西アジアへ製法が広まることになりました。
今でも使われる吹きガラスの技法
「吹きガラス」の技法が発明されたのは紀元前1世紀の古代シリアとされています。1本の金属パイプの先端に溶解ガラスを巻取り、息を吹込んでふくらませ、器などを成形する手法です。この技法により、従来のコア・テクニックという1型で1個しかできなかったガラス製作法に革命を起し,多量生産を可能にしました。
それまでガラスは、貴重品でしたが、この方法により、一般の家庭でも簡単にガラスのびんやコップが買えるようになりました。
そしてガラスは日本へと流入していきます。ここからは日本のガラスの歴史について解説していきます。
日本でのガラスの始まり
日本のガラスの始まりから衰退
日本最古のガラスは、縄文時代末期までさかのぼります。発見された小さなガラス玉は、日本で作られたものかどうか、はっきりしていませんが、ガラスがなんらかの形で、当時の人々の暮らしに入っていたことは間違いないでしょう。このガラス玉はアルカリ石灰ガラスで作られていて、青色や紺色でした。
弥生時代と言えば勾玉が有名で、それの起源がこのガラス玉だと考えられています。弥生時代の遺跡からは、ガラス製の玉(丸玉、勾玉、管玉など)が出てきます。また弥生後期の遺跡から、ガラス炉跡と思われるものが発見されております。
勾玉は、中国や朝鮮などにはない日本独自の形状です。それらから考えるに、2千年くらい前から、日本でガラスの成形・加工が行われていたことは確かでしょう。古墳から大量の勾玉やガラス小玉が発見されていることからも、日本では古くから「ガラス成形・加工」が行われていたことがわかります。
飛鳥・奈良時代になると、多くのガラス製品が、上流階級で使われるようになります。正倉院に納められている多くのガラス製品が有名で、ガラス自体がとても貴重な資源だったため、高級な装飾品や、宝物としてもガラスで作った装飾品は扱われていました。
しかしその後は、ヨーロッパを中心に8~16世紀でガラスが普及したのとは対照的に、日本では古代に陶器や武器でガラスを使っていた歴史があるものの、その後は陶器の発展により、ガラス製造の衰退が続いていました
そして再び歴史の表舞台に
天文12年(1543年)、種子島に漂着したポルトガル船を皮切りに、天文18年(1549年)、フランシスコ・ザビエルが来日し、日本は西洋文明と接触を持つようになます。その結果、鉄砲の製法を初めとする様々な技術がもたらされていきました。
ガラスは後に、山口の領主「大内義隆」に「ガラス器、鏡、めがね」などを送ってキリスト教布教の許しを求めたことに始まります。
その後、海外との交流の結果、多くのガラス製品が輸入され、日本でも盛んにガラスが作られるようになりました。
しかし、従来の鉛分の多い球の素材で作られた日本のガラスは、熱や衝撃に弱いという決定的な欠陥がありました。そのため、生活道具としてのガラスの容器を自分たちの手で作ることはできませんでした。
しかしその後、長崎を中心に17世紀から近世日本のガラス製造が始まり、18世紀には、大坂・京都・江戸・佐賀・福岡・薩摩など日本各地で盛んにガラスが作られるようになりました。
琉球のガラスの歴史
日本でガラス工芸の発展が始まったのは江戸時代ですが、国内でいち早くガラス工芸が活発になったのは現在の沖縄にあたる琉球王国です。
起源は1600年代後半だと言われています。那覇市にある円覚寺にて作られた和尚像の目の部分にガラス玉が使われていたことからも、沖縄ではすでにこの時代からガラス細工が伝来していたことがわかります。
また、首里王府の命令により作られた地誌である「琉球国旧記」には職業一覧が掲載されており、1730年代にはガラス職人の存在が記されています。
その後、沖縄でガラス製造が本格的に始まったのは明治中期からです。明治時代の中期ごろ、長崎や大阪からガラス職人を招致し、沖縄での生産が始まります。その頃の主な原料は一升瓶や醤油瓶などの廃ガラスで、火屋(ほや。ランプの火をおおう筒)や蝿取り瓶などが製作されました。
その後、量産的に作られるようになったのは戦後間もない頃、アメリカ軍の駐留軍人向けに作られるようになった事がきっかけです。
当時沖縄を占領したアメリカ兵が捨てた清涼飲料の空き瓶を資源とし、リサイクルして生まれたのが現代に続く色彩豊かな琉球ガラスの始まりとされています。今も有名な琉球ガラスは、本来ならば不良品扱いとなる気泡も琉球ガラスの特徴として、素朴な味わいや光の芸術と呼ばれ受け継がれています。
江戸時代のガラスの歴史
日本で本格的に普及したのは1600年代半ばに徳川吉宗が輸出解禁を行ってからです。
その後、ガラスの製造が本格的に発展したのは加賀屋久兵衛と上総屋留三郎によってでした。江戸は人口100万人ほどが住む日本の最大消費都市で、18世紀の初めに日本橋通塩町で加賀屋久兵衛が鏡や眼鏡など大衆向けの硝子製品を製造し、浅草では上総屋留三郎がかんざしや風鈴、万華鏡などを製作し、江戸の町で爆発的な人気を呼んだとされています。
また、当時のガラスは『下手物(げてもの)』『際物(きわもの)』と捉えられがちな部分があります。これはガラスが目新しい見せ物興業の一つとして扱われており、祭りや縁日、盛り場などに娯楽を求めて集まる人々の前で、ガラスの見せ物興行者たちは、ガラス素材を吹いて細工物を作って見せていたからです。こうしてガラスは全国へ普及していったのです。
江戸時代に日本で作られていたガラス器は、素材が鉛ガラスで、技法は吹きガラスでした。鉛が多く含まれているため、その素地は透明にならず、薄い黄緑色や黄色の発色をしています。素材的にも技術的にも未熟であった当時の製品は、手に取るだけで壊れてしまいそうなほど薄いものでした。そのため珍奇な趣向品として扱われてきたのではないかと言われています。
当時は、成形したばかりの熱いガラス器を少しずつ均等に冷ます「徐冷」という技術が乏しかったため、厚い素地のガラスを作ることができなかったのです。しかし、江戸のガラス職人が作り出した、壊れそうなほど薄い儚げな風情を持つ色と形のガラスには、日本人の感性や美意識が色濃く表現されています。
同時代のガラス器と比べても際立って個性的な魅力を持つ、他に類を見ない作品として今に残されています。
江戸硝子の製法は、「宙吹き」「型吹き」「押し型」があり、原材料は伝統的に珪砂、ソーダ灰、石灰、炭酸カリ、酸化鉛等が使われています。
江戸切子の歴史
江戸のガラスといえば、もう一つ、江戸切子も有名です。江戸切子とはガラス製品の装飾加工法、またはそれによって作られた製品の事を言います。金剛砂を使い溝をつけ模様を描いたり、曲線で絵を描く事を切子加工と呼び、江戸硝子に加工したものが江戸切子です。江戸切子を生み出したのは、江戸硝子で鏡や眼鏡を作っていた加賀谷久兵衛とされています。
1834年に初めて江戸で作られたとされている「切子」が次第に人気を博すと、次いで大阪や薩摩でも作られるようになりました。中でも最も水準の高いガラス器を作ったのは薩摩藩です。とりわけ1851年に発明した銅赤ガラスによって、薩摩藩は名声を馳せました。
明治時代に入ると御雇い外国人としてイギリスのカットグラス技師・エマヌエル・ホープトマンがその技術を伝え、イギリスのカットグラスの技術が江戸切子の技術に融合されました。また、作業もグラインダーを用いるようになったといいます。さらには薩摩切子が断絶したことで、薩摩切子の職人も江戸に渡って江戸切子の製作に携わることになりました。
現代においては1985年に東京都の伝統工芸品に指定され、2002年に国にも認められました。
明治時代、そして現代へ
明治のガラス
明治維新という大きな社会変革によって、日本のガラス事情も一変し、明治に入ると、ガラス屑の輸入がされるようになり、再び安いガラスが生産されるようになりました。そんな中、明治政府は企業による工場生産を目指した為、ガラスは小規模のガラス会社が生産するようになりました。
そこでは日本のガラス産業の技術力向上のため、イギリスから数人の技術者を招くとともに、機械・器具・その他の主要材料が導入されました。しかし、明治時代のガラス製造技術は、全般的に江戸時代の技術を受け継いだものであったので、外国からの技術が民間の零細業者まで浸透し始めるのは明治中期以降のことでした。
そしてガラスは人々の暮らしの中でより身近な、近代生活に欠かせない道具となっていきました。
鉛ガラスの日用器は、欧米と同じようなソーダガラス製に変わり、作られ皿やコップなども量産化されるようになりました。明治6年には、近代にいたるまでガラス工業の中心となった「品川硝子」が東京・品川に設立されました。
そして時代の中、ガラスが大活躍したのは燈火器(明かりをつける器具)で、ガラスによる石油ランプが西欧文化の流入によって日本にもたらされました。
それまで行灯や燭台の明かりしか知らなかった人々に大きな驚きを与えました。
現代のガラス
そしてガラスは今の時代へとつながります。現代ではご存じの通り住宅や工芸などに多くの種類のガラスが使われており、加工方法も様々です。
ガラスの歴史 まとめ
- 4500年前
- メソポタミアで製造されたガラスが発見される
- 紀元前1550年
- エジプトで粘土の型に溶かしたガラスを流し込んで最初のガラスの器が作られる
- 紀元前1世紀
- 吹きガラスの技法が発見される弥生時代、ガラスの製造が日本で始まる。
- 飛鳥、奈良時代
- 多くのガラス製品が上流階級で使われる。
- 8世紀から16世紀まで
- ガラスの日本での発展は止まる。
- 1543年
- 種子島にポルトガル船が漂着し、1549年にはフランシスコ・ザビエルが来日し、多くのガラス製品が輸入されていく。
- 1600年代後半
- 沖縄でガラス細工が使われるようになる。18世紀初め、ガラスが江戸の町で爆発的な人気となる。
- 1834年
- 切子が作られる。
- 1985年
- 切子が東京都の伝統工芸品に指定。
- 2002年
- 切子が国の伝統工芸品に指定。